偏りを許容する。
皆様、アクシス代表の末永です。社長ブログ、久しぶりの更新となりました。ここ最近も相変わらず忙殺されており更新が滞ってしまいましたが、ブログを更新する機会は自分と対話し、俯瞰して立ち位置を把握するために立ち返る場として大事な時間と思っています。
偏ることへの恐れ
掲題の件ですが、結論を最初にお伝えすると自分はかなり偏った人間です。
そもそも偏っていない人間がいるのかもわからないのですが、これまで極端だとか、偏っていると散々言われてきました。どちらかと言えば否定的に捉えられる事が多かったり、誰かを無自覚に傷つけてしまった事もあるかと思います。
会社を経営する中で、社員を雇用し始めて、最初は自分の一部作業の委託関係だったものから、徐々に師弟関係→サークルのようなチーム→集団や組織になってきました。
そうした変化に対して、本来であれば自分の理想を追求するために、雇用リスクや責任を背負って人を増やしてきたはずなのに、いつしか自分で作ってきた構造そのものにハメられてしまう感覚がありました。
あくまで、誰かが何かしらの意図を持ってハメてきているわけではなく、気がつくとその構造や趣旨に従順になってしまっているような感覚です。
自分の偏りによるメリット、デメリット
自分の偏りはいくつかあります。
- 人が見えない機微や具体で異常なくらいの洞察力と解像度を持ちがち
- 異常なくらいの情報を延々と収集してしまいがち
- 本質的で、極端な基準や理想を求めがち
このような偏りがあるが故に、良い事も悪い事もあります。
上記の文脈でいうと以下がデメリットでしょうか。
- 集団の中にいたり、XなどのSNSを眺めているとマクロ・ミクロ両方の大量の情報を解像度高くもらい過ぎてしまい、混乱・疲弊してしまう
- 上記に付随して大量の情報と多面的な視点や切り口で思考や分析が回りすぎてしまい、大量のアウトプットを相手にぶつけてしまい、情報過多で逆に伝わらなかったり胃もたれさせてしまう or 5周くらいまわって何も言わずに黙るというコミュニケーションにおいての不足や不器用さが発生してしまう
- 構造を把握した際の役割や責任という理想に対して自分自身を枠組みにはめてしまい、自分を過剰に責めてしまったり身動きがとれなくなってしまう
偏ることが選ばれる基準になる
ただ、この偏りはデメリットだけではなく、メリットにもなり得ます。
それは、一言で言うと商売においてお客さまから選んでいただけるという事です。
- お客さんの声にならないインサイトや欲求に気がつく事ができる
- 今は顕在化していないが、その領域における本質的な価値を捉える事ができる
- その価値をお届けするためにスムーズな打ち手やストーリー、デリバリーの流れを解像度高く設計する事ができる
- 上記を達成するための高い理想や基準を把握して徹底する事ができる(逆に価値に寄与しない事はかなり怠惰で雑である)
アクシスという会社は、いわゆる枯れたビジネスモデル=成熟しており、参入障壁も低く、差別化が難しいレッドオーシャン市場という中で、後発でも一定の売上や組織拡大がしてこれたのは、この偏りによるものだと思っています。
この偏りはもちろん万能ではなく、ある側面ではポンコツ化してしまったり、誰かを無自覚に傷つけてしまうこともあるかもしれません。
それでも経営者として商売とはお客さんに選んでもらってナンボであり、ここが前提になければ、その後にどんなことをやっても意味がないと思っています。
だからこそ、この極端に思える偏りを自分に対して許容して行使していきたいと思っています。
思想の合致があるかないか
「その偏りや基準が良いな!」と思える人とは一緒やっていけるし、そうでない人とは一緒にやっていけない。
それだけなのかなと思っています。
もちろん人生においての友人としては相いれなくても全然良いと思っていますが、商売においてはこの偏りこそが価値を生む基準になります。
それを信じて一緒にやっていきたいか?自分もその境地に至ってみたいと思えるか。
ただ、それだけです。それ以外は申し訳ないけれど、枝葉のことなのです。
もちろん無駄で必要のないこととまで言うつもりはありませんが。
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